人間という言葉は、もともと
「人と人との間」→「世間」「社会」を表していたといいます。
つまり、個だけを表すのではなく、全体を表しているんですね。
人は、なぜ他者を傷つけるような残酷な事件を起こしたり、
自分を傷つけたり、自殺したり、引きこもったりするのでしょうか。
人は、先天的にも後天的に「変わっている」人はいます。
コミュニケーションが取りづらかったり、知能が低かったり、障害を持っていたり。
その人たちは、様々なことばで呼ばれます。
- 発達障害
- LGBT
- 障害者
- サイコパス
- 天才
- 統合失調症・・・etc
全て、人間が作ったことばです。
たまたま、世の中における多数決では負けてしまっている「マイノリティ」なだけで
同じ人間です。
人間であるからこそ、誰かと関わりたい・認められたいという気持ちはあります。
けれども、マジョリティがルールを作っている世の中では
マイノリティの人たちは、そのルールを守り切ること(ルールマラソン)ができずに
一人、また一人と脱落していきます。
誰かと関わりたい・認められたいなら、こう振舞え!
というマジョリティルールは、人間の中に、はびこっています。
- 空気は読め
- 人に迷惑をかけるな
- みんなのペースについてこい
- 男だったら・・・女だったら・・・子どもだったら・・・親だったら
そうやって、ルールマラソンを完走した人が、普通に大学に行き、普通に仕事に就ける人たちです。
完走できない人は、
休憩(社会的引きこもり)したり
別のコースを走ったり(マイノリティルール)
走ることをやめたり(自殺・他殺・社会的死)します。
マイノリティルールの覇者が、世の中のトップに君臨したり
新しいことを生み出す先駆者だったりします。
しかし、マジョリティが目指すのはそこではありません。
トップを目指すのではなく、マジョリティは常に、マジョリティを目指すのです。
私たち人間は、弱く、誰もがルールやつながりを求めています。
コミュニケーションが苦手なだけであって、関わることを求めていないわけではないのです。
どこかで傷つき、諦めているだけなのです。
学校でも、小動物を虐待する子どもがいたりします。
関わってみると、確かに関わり方が難しく、工夫がいることがわかります。
その子は、「友達が欲しい」と言いました。
「今は、先生たちがいるからいいけど、卒業したら心配だ」と。
関わること・認められることに満足しているときは、虐待行為などは出てきません。
工夫できる力をもった側が、工夫してください。
マジョリティが得意とすることに、「調和」があります。
どこかで悲しい事件のニュースを聞いたときに、
「許せない」ではなく、「明日誰かに優しくしよう」と思ってみてください。
数が多いことは、力です、あなたの些細な行動が、全てを変えます。
マイノリティが得意とすることに、「独創」があります。
自分を一人だと思わず、仲間を探し、自分の可能性を最大限に引き出してください。
自分の中の「悪魔」を追い出そうとせず、人間を求めることをやめないでください。
数が少ないことは、価値です。あなたの大きな行動が、全てを変えます。
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