どの親も、どこを目指しているか、何に悩んでいるか、
何を基準に子育てをしているかというと
将来の「独り立ち」
どうやって、この子は飯を食べていくのだろう。
一言で言えば、こういったことじゃないかと思うんですよね。
昔は、農業や漁業、林業などの第一次産業が盛んで、
そういった仕事に従事している方が大半で
自分の子どもも、そのやり方を覚えてくれればそれで良いと思っていた。
だからこそ、親としても学校の重要性は必然的に低く、
子どもからしても、学校で授業についていけなかったり、運動音痴でも
「将来食べていけない」ということに直結していないということがわかっていたので
どことなく、子ども自身にもゆとりがある。
勉強ができない=自分には価値がない
という図式にはならなかった。
ところが時代がかわり、そうは言ってられなくなった。
社会が変わって、そこで求められる重要な要素として
コミュニケーション能力や相応の学力を求められるようになった。
企業が新卒社員に求める能力も、2016年度までの調査で
連続13年1位を記録しているのが「コミュニケーション能力」
社会人としてそれを地肌に感じている親は、当然それを求めるようになる。
何か突出した能力は確かに魅力的だが、
果たしてそれはオリンピックに行けるようなレベルのものなのか。
すぐにそういう判断で能力を見るようになる。
確かに足は速い。県内1位くらいにはなれるかもしれない。
けれど、それだけでは「食べていけない」
そうなると、親は「何にでもなれる準備」をさせたくなる。
何にでもなれるというのは、つまり、社会に求められやすい人材になるということ。
それはつまり、マジョリティの世界からはみ出さないということ。
それには、コミュニケーション能力と相応の学力が必要なのだ。
そういった考えからすると、不登校は完全なる悪だ。
全国の不登校出現率は、平均3%程度。不登校になると、
一気に社会の3%のマイノリティに格落ち。
これは親としては一大事。
学校に行ってほしい。行き続けてほしい。
それが親の本音になる。
それが、子どもには絶対伝わる。
いくら建前で、「辛かったら行かなくてもいい」と行っても
本当は、行ってくれたら、親の苦しみはなくなるとわかっている。
それが、今。この時代。
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