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ルールは人間関係の壁になることを、もっと認識しておいたほうがいい

例えば、コワーキングスペースで

「いつも、あの席に座っている人のタイピングの音が気になる」

ということが起こったとして、新しくルールを設定したとする。

「コワーキングスペースでは音に敏感な方もいらっしゃるので、タイピングの音には気をつけましょう」

という具合に。

或る日突然追加されたルール。自分のことなのか、はたまた違う誰かのことなのか。

自分には、知る由もないが、なんかちょっと息苦しくなる。

また別の日に行くと、違うルールが追加されていた。

「歩く時の音が気になる方がいらっしゃるので、ドンドンと足音を立てないようにしましょう」

そして、またちょっと息苦しくなる。

何か、一つの意見や不満が出た時に、それを全体化して、ルールとして設定してしまう。

目的は、「みんなが心地よく過ごせるために」

その目的のために、向かっているはずなのに、ルールがあればあるほど息苦しくなる。

じゃー、どうすればよかったのか。

人と人をつなぐこと。その人のことを知ること。お互いに話をすること。

これをしない。できない。させない状況で人への不満は蓄積される。

「タイピングをやたらうるさく打つ人」
「やけにドンドン歩く人」

から、その人のプロフィールを更新する必要がある。

電車でのマナーとして、「電話をしない」というのがある。

けど、おしゃべりは禁止されていない。

よく言われるのは、電話の相手の声を聞けないから気持ちが悪いというもの。

独り言は気味が悪いが、おしゃべりは別に気にならない。

全容がわかれば、内容は気にならなくなる(面白かったら聞いちゃうけど)

 

人はそういう生き物。その人のことがよくわかれば、こう変わるかもしれない。

「タイピングをやたらうるさく打つ人」

「エクセルでもワードでも分からないことがあったらなんでも教えてくれるし、それどころか代わりに作業をやってくれちゃうような優しさがある仕事の早い人。けど、乗ってきたらタイピングを打つ勢いが激しくなる」

タイピングの音が気にならなくなる。または、めっちゃ音うるさいですよと言えちゃう。

「やけにドンドン歩く人」

「体育会系で細かいことが気にならない経営者。仲良くなったら酒やご飯をご馳走してくれるようになった。喋りもめっちゃ面白い。けど、デリカシーには欠ける。」

あ、また社長が来てるな。社長きたらすぐわかりますよ。足音で。って言えちゃう。

とか。

そういうことをせずに、させずにルールで被せちゃうと当然この関係づくりの機会が失われる。

この関係づくりは、個人と個人の問題ではなく、そのコミュニティにも影響していくこと。

不満やクレームは人間関係づくりのきっかけと捉えることが必要。

空気を読むこと自体、悪いこととは思わない。

というより、「空気なんて読まないでいいんだよ」って

そんなアドバイスされても、無理。なんの役にも立たない。

というよりは、空気を読むというのは、そもそも一定の人間関係を構築できている相手とだけ成立する行動であると思っておいたほうがいい。

一方だけ空気を読んでも、それは単純に片方が我慢しているだけ。

阿吽の呼吸のように、付き合いの長い者同士で、何も言わなくても互いの意図を組んで行動するようなこと。

自分が息苦しくなるような空気は、読まなくても吸わなくてもいいように、その場の環境(人と人との関係の集合体)を変えること。

人と人との間に、壁(ルール)を作ったりすることでは、いずれ全員が息苦しさの中に置かれることになる。

人間関係づくりより、ルールづくりの方が簡単に物事を解決できるかのように錯覚するからやっちゃう。

 

ここ最近は、また強烈なルールが増えてきた。

こういったルールやマナーが増えていけばいくほど、人は病んでいく。

今回は、コロナのことを言いたいわけではないけど、その事の重大さをもっと認識した方が良い。

次回は、学校編で。

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